大正12年 5月生まれ
昭和16年 4月 名古屋財務局採用
昭和48年 4月 関東信越国税局退官
昭和49年 5月 税理士登録
昭和49年 5月 開業
昭和52年 4月 関信税理士会佐久支部長 2期
平成12年 6月 関信税理士会よりオパール桜花章褒賞
平成22年 1月 税理士法人設立
平成25年 5月12日 永 眠 (享年90歳)
 ※税以外の主な活動
   ・ 昭和50年 4月 望月ライオンズクラブ
              チャーターメンバーとして参加 − 終身会員
   ・ 保護司として、多年に渡り更生活動に取り組む         
 

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 私(1923年生)が満18才で岩村田税務署(現:佐久税務署)に「雇」として入署したのは昭和16年(1941年)12月、日本が米英に宣戦布告した月であり日本軍の連戦連勝に国中が沸いていた時であった。それから昭和20年(1945年)8月敗戦までの約4年間という戦前の税務署の状況を実体験した者は現在では残り僅かとなってしまった。
 私は、幸か不幸か身体上の問題から兵役を免除となっていたので、下級税史として、この4年間に体験した記録を語っておかねばならない義務のようなものを感じてきたので、ここに一文を記すこととした。
 
 当時、岩村田税務署は長野県北佐久郡岩村田町の東北部西念寺の近くにあり明治41年(1908年)建築の町有建物を假用した木造平屋の建物と二階建ての土蔵造りの土地台帳蔵があった。蔵の1階は当時、南北佐久両郡50か町村の土地台帳で埋まっていた。
 当時の職員は30人程であり署長の下に直税課、間税課、庶務課の3課があり当時の署員の階級は身分制であり「司税官」「属官」「雇」と3階級になっていた。
 「司税官」は高等官で署長1人であり、「属官」は律令制で旧制の官庁の判任文官であり13〜15名程で課長、主任、一般から構成されており、「雇」が12〜13名程であった。
 私は直税課の地租係で8名程で主任1人が「属官」であり、あとは皆「雇」であった。
 
 「地租」といわれる税目は現在の人々にはピンとこないと思われるので、少しく説明してみたい。
 ご存知のNHK大河ドラマ「篤姫」を観て新たに実感したのですが、260年間続いた江戸幕府が崩壊し、主に薩長連合を主体とした明治新政府は、国の財源をどう調達するかに大いに悩んだことと思います。
 旧幕時代の制度は「米」を主体とする物納制度であり、新政府においても当面踏襲せざるを得ないという状況から物納制度を廃止し、貨幣による納税制度に改めることが余儀なく急務となっていました。
 そんな状況下、これら物納制度の根幹となる全国の農地の原本は旧幕のものを引き継いだものであった。明治元年における「地租」は国の租税総額63.7%、最も多い明治7年度においては91%を占めていたのである。
 その後所得税、酒税など税目も増し租税体型も近代化してゆき、私の入署した昭和16年当時は「地租」の税額は租税総収入の3.7%と小さなものとなっていた。当時、「地租」の課税標準は賃貸価格(明治初期の課税標準は地価額)に対してその2%は国が、7%は市町村が徴収していた。
 
 以上の如く、「地租」による租税収入は徐々に微々たるものとなっていったが、税務署の「地租」の果たす役割はそれだけでなく、全国の土地台帳と公図を管理するという重責も兼ねていたのである。
 当時、土地の異動(分筆や地目変換、開墾成功など)は総て税務署が管理しており、例えば土地所有者が土地の一部を売買して所有権の移転登記を行うための手続きは、先ず税務署に分筆の届け出(地図添付)を成し、税務署が調査の上で土地台帳に記載し又は新たに作成し又は公図を修正し、所有者にその謄本を交付、それを法務局へもってゆき初めて所有権の移転が終了することとなっていた。すなわち土地の異動は総て税務署を通すこととなっていたのである。
 当時の「地租」の税務官史の権限は下記のごとくである。
  1、 税務官史は土地を検査し、又は地主その他、利害関係人に対し必要な事項を尋
    問することができる。この場合、その土地の検査を拒み、又はこれを防げた者は
    100円以下の罰金に処する。 (参考)当時私の月の給料は37円でした。
  2、 土地を欺隠しその他作為、不正の行為により地租を補脱した者は、直ちにその
    地租を徴収しその補脱した税金の5倍に相当する罰金又は科料に処する。
   (他3以下は略す)
 以上のような次第で、「地租」担当者は現地に赴き検査をしたり、土地台帳、公図の管理、謄本の発行に追われていた。当時「地租」主任(属官)は市町村の税務職員から、ものすごく丁重に扱われており、また土地争いなどの調停もしていたのであった。
 ある時、主任に「ついて来い!」と言われ台帳蔵の2階に上がった時のことが印象的でした。主任はほの暗い部屋に雑然と積まれた書類から、ようやく目的の書類を見つけて引っ張り出して診ていたことです。それは徳川幕府から移管された公図の原始図であり、境界争いの参考にしたものであったと記憶しています。
 当時岩村田税務署は南佐久郡・北佐久郡50ケ町村を管轄していました。(市は当時無かった)その全町村毎に和紙で厳重に綴じられた土地台帳何千冊や公図または旧幕府時代の書類はその後にどうなり、そして現在、どこへいったのだろうか。
 
 また当時の署内の様子を思い出すに、署長は署長室又は全署員がいる事務室の奥の司税官を表す緑色の大テーブルに居て、机の端には卓上鈴が置かれその呼び鈴がチーンと1回鳴れば直税課長、2回(チンチーン)ならば間税課長、3回(チンチンチーン)ならば庶務課長であった。私ども「雇」から見れば直税課長は神様のようなものであったが、呼び鈴が1回なるとサッと立って署長の前で直立不動の姿勢で畏まっていた。そんな署長は神様のさらに上の人であった。
 ある日のことです。新入りの中学卒(今は高校)の2人が地租の席にいた。昼になると待ちかねたように新聞紙に包んだ弁当箱を広げて食べ始めたら、主任は「コラー!」と署長の机を指差した。署長は、まだ弁当を開られていなかったのだ。署長が弁当を開けなければ課長も又主任も弁当を開けられなかったのである。新入りはハッとして、弁当の蓋を閉じた。
 又、「雇」は別に規則があった訳ではないが背広を着る者はいなかった。サージの詰め襟の服であった。
 そして当時の税務署には「給仕」という職制があり岩村田税務署にも1人存在し、お茶を淹れてくれたり、その他の雑用をこなしてくれた。・・・属官「おい」・給仕「はい」・属官「タバコ、買ってきてくれ」など・・・又給料も給仕が配ってくれた。給仕は高等小学校出の少年であったが、戦後の後には給仕から励んで署長にまで出世した者もいた。
 土曜日は半日であった。明日は休みだと期待していたら主任から明日は「皆、頼むよ」の声。明日の日曜はフイとなった。
 然し当時の岩村田税務署には厳格の中にも不思議と和やかな空気があった。
 
 「雇」には年に1度、長野税務署で任官試験が施された。その試験準備のため約1ヶ月間午後5時〜6時まで岩村田税務署会議室で研修が行われた。民法とそろばんは署長、所得税法は直税課長、酒税法は間税課長、国税徴収法は庶務課長であった。
 その研修の中の1つ、署長の〈そろばん〉では10数人の「雇」がそろばんを手にした。 それは署長が4桁の数字を詠み上げたあとで「A君、答は!」と問う。 A君「○○です」 署長「それは違う○□だ」と即座に署長は返した。最初は署長が単にお手本を読み上げているのかと思っていたが、実は署長は何も見ずに暗算していたのであり後で聞いた話であるが、特に名古屋国税局の中でもそろばんの名手であったとのことであった。
 
 昭和18年長野税務署での任官試験も終わり5月に私を含む3人が任官試験に合格、私は浜松税務署への転任の辞令を手にした。 愈々、憧れの「属官」となったのだ。
 そして初めて三つ揃いの背広を注文したのであった。
 
 戦前の第1回はここまでとする。浜松税務署時代は後に記したい。
 
両 澤 忠 一 郎
               
両 澤 会 計 事 務 所
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