大正12年 5月生まれ
昭和16年 4月 名古屋財務局採用
昭和48年 4月 関東信越国税局退官
昭和49年 5月 税理士登録
昭和49年 5月 開業
昭和52年 4月 関信税理士会佐久支部長 2期
平成12年 6月 関信税理士会よりオパール桜花章褒賞
平成22年 1月 税理士法人設立
平成25年 5月12日 永 眠 (享年90歳)
 ※税以外の主な活動
   ・ 昭和50年 4月 望月ライオンズクラブ
              チャーターメンバーとして参加 − 終身会員
   ・ 保護司として、多年に渡り更生活動に取り組む         
 
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戦前の浜松税務署時代
枇杷(びわ)の思い出
 昭和十八年五月岩村田税務署にて判任文官の属官に任命されてからほどなく、勇躍、静岡県第二の都市にある浜松税務署に赴任してから一年余りの歳月が流れていた。
 さすが職員の数も多く(職員録など戦災で焼失してしまったが)事務室の情景は今も鮮明に目に浮かぶ。最も大きな集まりは直税課であり全職員の半数以上を擁しており、玄関から左側の大半を占め事務机4脚が向き合って八人一区画となり計六区画四八人ほどで構成されていた。そのうち地租係が八人、法人係が二人、相続税係が一人位で、残りは全て個人(所得税)係で三十七名であった。右側は間税課と庶務課であり、最奥は署長室であった。当時の所得税法は、分類所得税が主で、不動産所得、事業所得、勤労所得他で、現在の譲渡所得と言うものはなかった。全て家族合算で課税されており、3,000円以上はさらに総合所得税が課税されていた。勤労の所得甲種は現代とほぼ同じ源泉課税であった。
 
 所得の申告制度は今と同じく三月十五日迄であったが、今からみれば全く単純なB5程度の縦書き用紙1枚に、所得の種類、所得の生ずる場所、収入金額、必要経費(合計のみ)所得金額基礎控除だけで差引所得を算出し、かつ扶養家族控除を差し引くという簡便な申告書式であった。(末尾参照)現在の申告納税制度とは全く異なり申告書は所得計算の参考資料に過ぎなかった。すなわち事業所得、不動産所得は全て税務署側の調査による。調査結果の数字は、所得調査委員会(詳細は略)の決議を経て税務署長が所得金額を決定する賦課制度であった。
 「調査委員会」は四月中旬から下旬にかけて開会し税務署長の諮問に応じ、一定期間十日乃至三十日以内に調査して適当と認める所得金額を決議する。
 これが終了すると税務署は各納税者に「決定通知書」を送付する。納税場所は各市町村であった。
 
 以上のような流れであったので、三月から四月の個人係は大繁忙期であり、調査委員会の諮問に間に合うべく、属官を中心として日夜、各地域別に全納税者の資料作りに追われていた。一冊の高さが十糎(センチ)ほどの調査書を一人、二、三冊埋めて行かねばならず、新米の属官であった私(当時二十一才)は先輩属官の様子をみながら、一納税者ごとB5用紙の調査書一枚一枚に調査した数字を入れたことは忘れられない。
 特に地主などの調査書は個人で十枚位であった。帰るとき隣のB先輩は大冊半分ほど終えたようだ、私もなんとか半分だ、と一安心して翌朝仕事を始めようと隣の先輩をみるともう大冊一冊が終りに近づいているのには驚いた、これは家に持ち帰って仕事をしていたのだった。
 一定の締切り期があるので税務署では遅くまで仕事をした。当時残業手当などあった記憶はない。当時の税務署は「早出晩退」を美風としていた。ようやく何日か掛けて各々担当の詳細な調書の集計を完了し、その「集計表」を上席属官の元に渡した。
 上席属官の元に全員からの集計表が集められると、さあこれからが大変だ。上席属官三〜四名で全員からの集計表の総集計作業に入るのだ。集計が始まりだすと、皆緊張しているようだ。
 
 さあ集計が始まり出した。当時はソロバンであった各人
 の縦横種別ごとに詳細な集計が行われる。そのうち新潟
 からきた最上席(個人主任の次)Mさんから「○○君!」
 と大きな声がかけられた。「ハイ」
 と○○さんが言って直立不動にその前に立った。
 「君!ここ間違っているではないか!直してすぐにもってこい。」「ハイ」と席につき一生懸命再びソロバンへ、そして「直しました」と恐る恐る差し出す。すると最上席は「迷惑料だ!そのザルに入れなさい。」彼はポケットから財布を出し十銭銅貨を入れ自己の席に帰った。又しばらくすると「○○君!」と大声がして、その属官も同じようにザルに投げ入れた。又「○○君!」と声がした。中には四回位呼ばれた人もいた、私は幸か不幸か一度も呼ばれなかった。
 
 ようやく集計も終わったようで、ザルに
は相当数の十銭銅貨がたまっている。
 一番多くに呼ばれた属官は涙していた。
そして、その彼が最上席属官に呼ばれ、何
事かささやかれ、彼の姿が消えていなくな
ったようだ、それから二十分位して彼は大
量の「柿のような色の何か?」を買って戻
ってきた。それが「枇杷(びわ)」であ
った。
 その当時、信州で育った私は枇杷と言う
ものを全く知らなかったのである。そして
大量の枇杷が皆に配られた。各人皆、大喜
びで食べた、食べた。その旨かったこと。
それは言葉には言い表せない程であった。
 あれから六十数年たった今も枇杷をみるたびに思い出してしまう。当時の十銭の価
値としては、肉うどん 一杯が十銭であり、私の給料は四十五円程であった。
 厳しくも、今思えば楽しく心に残る思い出であった。
両 澤 会 計 事 務 所
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