大正12年 5月生まれ
昭和16年 4月 名古屋財務局採用
昭和48年 4月 関東信越国税局退官
昭和49年 5月 税理士登録
昭和49年 5月 開業
昭和52年 4月 関信税理士会佐久支部長 2期
平成12年 6月 関信税理士会よりオパール桜花章褒賞
平成22年 1月 税理士法人設立
平成25年 5月12日 永 眠 (享年90歳)
 ※税以外の主な活動
   ・ 昭和50年 4月 望月ライオンズクラブ
              チャーターメンバーとして参加 − 終身会員
   ・ 保護司として、多年に渡り更生活動に取り組む         
 

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 関東大震災が、大正12年9月(1923年)に起こり私はその年5月に生まれました。大正時代は、3年から5年間に渡る第一次世界大戦があり、日本は参戦しなかったために特需景気が沸き非常な好況に恵まれ、繭価は一貫匁(3.75kg)12円していました。(当時初任給25円、米1升20銭)船成金の言葉が生まれたのもその頃です。ところが、昭和4年10月24日(1929年)のニューヨークの株市場の大暴落(暗黒の木曜日)から世界恐慌が始まり、昭和4年には繭価も一貫匁あたり2円を割り込んでしまいました。その頃の日本の輸出の第1位は生糸であり、農家の現金収入は養蚕によって成り立っていたので深刻な事態なってしまいました。岡谷の製糸会社は手持ち在庫の暴落により借入金の返済不能に陥り、県下一位の信濃銀行も取り付け騒ぎ起き倒産してしまいました。大不況時代がやって来たのであります。
 
 昭和6年(1931年)恐慌下に八十二銀行が誕生し、望月も信濃銀行望月支店の建物がそのまま八十二銀行望月支店となったのでした。その年9月18日満州事変が勃発して、恐慌からの脱出を対外侵略に求めたのでした。それから14年間戦争は泥沼に入り込み、昭和20年8月15日全面降伏となったのはご承知の通りです。敗戦により焼土と化した日本が、昭和25年6月25日の朝鮮戦争の勃発による特需景気となり日本は奇跡的な立ち直りを見せたのであります。
 
 それからは、池田内閣の所得倍増のスローガンに沸き、田中内閣の列島改造ブ−ムとなり着実に日本経済は活性化し、安い労働力による安くて高品質の日本製品は世界を席捲していったのはご承知の通りであります。ところが平成3年(1991年)頃から「バブルの崩壊」なる言葉が出始めたのです。不況の影がじわじわと忍び寄って来たのです。橋本.小渕.森内閣は、景気を良くするために従来型の政治出動を持って立ち向かっていったのでありますが、景気は一向に回復せず巨額の負債が残され、日本経済は「経済の収縮」「デフレ現象」が一段と進行しました。小泉内閣のスローガン「構造改革なくして経済成長なし」が、果たして日本を救ってくれたのでしょうか。日経平均株価は平成18年末には1万7千円の大台を超え、19年度の予算においても7兆5000億円の税収増を見込んでおります。このような数字を見る限り日本経済は最不況期から脱し好況路線に乗ったかの感がみられます。然し、私共周辺の地方景況感は全く異なり、身近な個々の企業に反映しているとは感じられないばかりか、先行き不安材料を多く抱えているのが実情です。
 
 また世界に目を転ずればIT革命が一段と進み中国の爆発的な成長や軍事力の増強、インドの急速な発展、世界一の石油資源を有するロシアの動向など安倍内閣の内外に抱える問題は計り知れません。日本国民の本来が持っている知能、勤勉性などを最大限に生かし日本の目指す進路の羅針盤を誤らぬよう願うや切であります。
両 澤 会 計 事 務 所
〒384-2202 長野県佐久市望月285−1
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