大正12年 5月生まれ
昭和16年 4月 名古屋財務局採用
昭和48年 4月 関東信越国税局退官
昭和49年 5月 税理士登録
昭和49年 5月 開業
昭和52年 4月 関信税理士会佐久支部長 2期
平成12年 6月 関信税理士会よりオパール桜花章褒賞
平成22年 1月 税理士法人設立
平成25年 5月12日 永 眠 (享年90歳)
 ※税以外の主な活動
   ・ 昭和50年 4月 望月ライオンズクラブ
              チャーターメンバーとして参加 − 終身会員
   ・ 保護司として、多年に渡り更生活動に取り組む         
 
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浜松大空襲前後の思い出
 昭和18年(1943年)5月、岩村田税務署から浜松税務署に転勤して満2年が経っていた。昭和20年(1945年)4月の税務署は、先の枇杷(びわ)の思い出を綴った当時の署内の配置や様子は一見変化はないようであったが、よく比べると米英との戦いも初戦時の戦勝分は全く陰を密め、サイパン島を失ってからは全国都市への空爆が毎日のように報じられていた。
 署内の人員は同じ位であったが男女の比率が逆転して女子が60%以上位になっていた。
 その頃は20代、30代の男性は、赤紙(軍への召集)が矢継早に到来し、段々と戦場
へ送られて行っており毎日のように駅へ送りに出ていた。
 代わりに入署してきたのは女学校(今の高校)卒の人達であった。
 当時女学生の多くは軍需工場への徴用が大半を占める時代の中、当時の税務署の性格上いわゆる教育等素姓がしっかりとした特に事務能力に優れた人材が税務署に採用されたと思われる。(徴用:国家が国民を呼び出して強制的に仕事をさせること)
 当時、私の席は奥の1区画で男2人女6人計8人の中にあった。今思い出すとおぼろで不正確の面もあるが、彼女たちは、浜松きっての醸造家の娘、宮内大臣の姪、陸軍中将で皇室の侍従武官の孫、又は、ある村一の地主の娘、名門大学教授の娘、海軍省艦政本部集敢部次長の娘や軍人将校の妻など思い出すまま並べてみた。私はそれらの女性に囲まれて既に4年以上の税務署経験という立場となって仕事を命じていた。そしてそんな女性達をも区別なく、どんどんと村の役場等に出張させていた。彼女達は、極めて優秀でよく仕事をこなしていたことを覚えている。
 時々警戒警報が発せられB29が有に100機以上の大編隊が、我がもの顔に悠々と上空を飛んでいた。私たちは机の上に鉄兜と防空頭巾を置いて仕事をしていた。
 警戒警報も頻繁になった頃、ようやく税務署の前に防空壕が掘り造られていた。朝礼では二階大会議室に全署員が集まり、最後に皆が必ず謡ったのは署長始め「山行かばぁくさむす屍、海行かばぁみずく屍、大君の辺にこそ死なめぇ、返りみはせじぃ」と謡って終了した。
 
当時の日記帳  
 
 まさにその日、昭和20年4月30日は朝からどんよりと曇っていた。署長が珍しく署内を巡回していた。9時30分頃警戒警報がなり、間もなくこれも珍しく空襲警報に変わった。それでも日頃B29は上空を通り過ぎるので割と安心していたのであった。と一人でトイレへ行き細い通路に出たとき、突然、爆風と小石が飛んできた。急ぎ机に戻り鉄兜と頭巾をかぶり防空壕に飛び込むともう既に人でいっぱいであった。壁前に腰掛けがあり掛けることが出来、それからも人は増えて60〜70人位となっていたか。中には直接お天主(浜松城址のこと)へ向かい逃げ込んだ者もいたようだったが。耳新しい爆弾の音が浜松税務署付近に段々と大きく響き、ドン天急にドスドスと落下音、皆「神様助けて」「南無阿弥陀仏・・」と手を合わせて真剣に唱えている。
 何とか通り過ぎ一瞬静かになる。ほっと一時雑談の声、隣には新入の国本君18才位が居た、紅顔の美少年であった。
 又、ドスドスと落下音、今度こそだめか、ドスドスシュードスドス、これが最後かとドスンと落下音、グラグラと壕がゆれて、突如、中は暗くなり煙が中に満ちてきた。3ヶ所あるはずの扉は押すも引くも開かず、皆体当たりして扉に向かった。ようやく一つの扉が開いた。皆我先にと飛びだして近くの丘陵のお天主へ向かって逃げた。
 壕を出て唖然とした。ほんの数分前の情景は全て夢の如く、全ての建物、あぁ立派な道路屋並は全て無くなり、道路の上は壊れた建物の残骸だらけでようやく跨いで逃げていった。
 とその時、私はあっと言う間に何か大きな穴に落ちてしまった。それは、フタの吹っ飛んだマンホールだったのだ。這い上がろうとしても全くだめだ。「助けてくれ」と大声で叫んだ。然し皆逃げるのが精一杯で署長や課長も上を跨いで行く足が見えるが、誰も見向きもしない。爆音はしている・・大方人足がなくなった頃、私もこの穴ぐらで一人死ぬのかとそんな思いも過ぎりつつ、「助けてくれ」と最後の大声を出してみた。その時、「あっ、両澤さんだ。」という女性の声が聴こえ、3本の手がおろされた。それにつかまり、なんとか這い出し、お礼など考える間もなく間髪入れず皆に続いてお天主に向かって必死で逃げた。
 署から近くのお天主は丘陵となっており大勢が集まってきていたが、やはり驚くほど大きな爆弾の跡で荒れ果てていた。その時、誰かが城跡の横側を掘るとポカッと土砂が落ちて穴が開いた。爆風で塞がっていたのだった。中には最近入署したばかりの君が窒息して既に息絶えていた。弁当箱を手に持ち、蝋人形のようにまだ生きているようだった。
 大きな大木が折れている市内を見ると、爆風が火に変わりメラメラと燃えている。すぐ前の誠心女学校が燃えている。ここにいては危ない、逃げようとすると五十才位の男が、ここに居る!掘ってくれと泣き頼む。真ん中が窪んでいる中に妻が居ると言う、一つのシャベルで掘ったが息がきれ、申し訳ないがとお天主から一刻も早く市外に逃れようと逃げる、女子が数人泣きながら私の後についてくる早く市外へと急ぐ。
 私の身体は下水をあびて泥だらけで、出会う人々皆に「けがはないか」など言われながら、もう午後2時か3時を過ぎていた。ようやく市外を抜けることが出来て、見ると一軒の農家があり、皆縁側を借りて休む。年長の松下さんと私で男は2人であり、女子が4、5人いた。誰も昼飯を食べていない(私も弁当箱をマンホールに落としており悔やまれた)。年長の松下さんが老母に飯をたいてくれませんかと5円札(現代なら1万円以上か)を老母に渡したら飯を炊いて卵をつけて何かと出してくれる。縁側で皆おいしそうに食べている。私は腹が空いているのに同僚の死体などまさに地獄のような光景を見てきた直後の為か全然食べられない。泣いてついてきた女子達はパクパクと食べている。女は強し、その時妙な思いにかられたことを覚えている。
 そして私をマンホールから助けてくれたのも女子だった。
 その後、皆と別れ下宿へ向かった。建物は無事だった。然しガラスはメチャメチャ2階部屋に上がるもガラスの破片で手がつかない状況、何とかして夜を過ごす。
 次の朝、まだ熱い焼跡を通り署へ行く。あの立派な建物や鉄筋の書庫もない。金庫がポツンと残っている。玄関前の防空壕の跡はペシャンコにくぼみ、落ち込んでいる。工兵隊の兵士が数人掘り起こしている。署長以下数人が見ている。相当の時間を掛けて掘られた中から死体とおぼしき雀の丸こげのようなのが2ケ出てきた。ようやく一人は入署したばかりの岡本君、私の近くに居た紅顔の美男子であった。あと一人は小使の小父さんだった(火野さんといった)。
 岡本さんの母親がかけつけ我が子の死体を抱きしめ、さめざめと泣いている。涙なしでは見られない光景だ。僕等までも抱きついて泣いていると署長が、もういい加減にしてはとの声、何か非情なもの感じだ。それから署員は点々と居場所を替え、郊外の幼稚園に移った。署員は殆んどが地元の人であるが、私は下宿だ。小母さんは田舎へ行くと言う。私は知り合いの医師から慢性胃腸カタルで2カ月の休養を要するという診断書をもらい、一旦浜松を離れ長野の実家に戻った。
両 澤 会 計 事 務 所
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